未知の読者へのラブ・レター。多和田葉子の“探索者”より | 朝日新聞デジタル&w(アンド・ダブリュー)
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未知の読者へのラブ・レター。多和田葉子の“探索者”より

未知の読者へのラブ・レター。多和田葉子の“探索者”より

撮影/猪俣博史

『多和田葉子ノート』

好きなものへの思いを言葉にするのは難しい。対象である相手に直接ぶつけるだけならまだしも、それを多くの他者に向けて発するとなると、これはなかなかハードルが高い。思いが強ければ強いほど姿勢は前のめりになり、そこらにつばが飛び、その熱量と反比例するかのように周囲は醒(さ)めて引いていく、ということはよくあることだ。

何か、誰かへの偏愛を「読ませる」こともまた、文学の背負った使命のひとつ。詩、小説、そして評論。特に評論は対象が明確なだけに、ひとりよがりになりがちなのを避けるのが困難だ。冷静に分析して思考し、ある程度は普遍化させることができても、そうなると今度は当初の熱量、論を書くに至った動機が薄れてしまいがち。「愛」を保ちながら読ませる評論を書くということは、本当に難しい。

『多和田葉子ノート』は、そのバランスを見事に成し遂げた稀有(けう)な評論のひとつである。自身が作家でもある室井光広氏の、作家・多和田葉子のすべての文業をすくい取る偉業である。本人は評論ではなく「ただの愛読者のノート」であると謙遜(けんそん)しているが、これを「多和田葉子論」と言わずしてどうする、と心から思う。

メインに据えられているのは、2018年に刊行された『地球にちりばめられて』だが、過去作品も丹念になぞり、さらには多和田作品をかたちづくる様々なバックグラウンドにも目を配っている。

カフカ、アンデルセン、ゲーテ、シェークスピア、そして柳田国男、折口信夫、宮沢賢治。さらには古事記や日本書紀など神話以来の多くの「書かれたもの」の痕跡を丁寧にたどってひとつの作品を読み解く姿は、謎に迫る探索者、冒険者そのものであり、室井さんのワクワクドキドキがこちらにまで伝わってくる。

ページに詰まった深い愛

『地球にちりばめられて』は3部作であることが著者本人によって明かされていて、その2冊目となる『星に仄(ほの)めかされて』が今年2020年5月に刊行されたばかり。母国と母語を失った女性が主人公となる壮大な物語についてここでは詳細に記すことができないが、この「ノート」を読むだけでもかなり核心に近づける。

〈……実を言えば、一人ひとりの読者は本を読んでいるときに、自分自身の読者なのだ。作品は、この書物がなければ見えなかった読者自身の内部のものをはっきりと識別させるために、作家が読者に提供する一種の光学器械にすぎない〉

これは室井さんがプルーストの言葉を借りて私たちに伝える「読み」の極意のひとつ。作品を読むという行為が、読者自身に内発的な発見をもたらすことの醍醐(だいご)味を示唆している。

未知の読者へのラブ・レター。多和田葉子の“探索者”より

『多和田葉子ノート』室井光広 著 双子のライオン堂 2,500円+税

自らを不勉強な怠け者とちゃかし、時に本題をはぐらかすような口調でひょうひょうと語りながら、これほど誠実で真摯(しんし)で濃密な「多和田葉子論」はほかにないだろう。時にこちらが赤面するほど、室井さんの多和田作品への愛が深く強くつづられていて、本のたたずまいは静謐(せいひつ)なのに、ページの中にはぎっしりと「思い」が詰まっている。

この希代の読み巧者は、2019年に急逝した。今はそのことがただ悔しく、惜しく、哀(かな)しくてならない。『星に仄めかされて』を室井さんはどう読んだだろう。そしてこれから出る完結編は……。

この本は、評論のかたちを借りた堂々たるラブ・レターである。及ばずながら私もこのつたない書評を、室井さんとこの本を出してくださった「双子のライオン堂」、そして多和田さんや室井さんの本を手に取る未知の読者の方たちへのラブ・レターとして差し出したい。

(文・八木寧子)

【合わせて読みたい】多和田葉子作品でしか体験できないこと。『地球にちりばめられて』

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