幸せの直感に身をまかせ 辻堂の「Chigaya Bakeshop」 | 朝日新聞デジタル&w(アンド・ダブリュー)
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幸せの直感に身をまかせ 辻堂の「Chigaya Bakeshop」

 JR東海道線辻堂駅から、海に向かってまっすぐにのびた海浜公園通り。陽光まぶしい住宅街の中に、小さいながらも、思わず目を留めてしまう店がある。鈴木ちがやさん(33)が2014年にオープンした「Chigaya Bakeshop」(チガヤ・ベイクショップ)だ。

 通りに向かって開け放した入り口から、風が店内を通り抜けていく。朝10時の開店とともに、近所のお客さんが続々とやってきて、店頭に並んだパン、マフィン、ドーナツが、みるみる売れていく。一日につくる量は決まっていて、売り切れたらそこでおしまい。お昼前には、かなりの数がはけてしまう。

「外国には『おはよう!』『元気?』と気軽にあいさつを交わしあうカフェがありますよね。テイクアウトするだけで気分が上がる。そんな店を日本にはないスタイルでやってみたかったんです」

 そう語る鈴木さんの原体験は高校卒業時の春休みにさかのぼる。アルバイトで入った逗子の「cafe coya(カフェコヤ)」。オーナーの根本きこさん夫妻が、古い木造の店舗跡をリノベートしたカフェは、それまで見向きもされなかったものに新しい価値を与えたもので、空間、食器、メニューと、すべてにさり気ない美意識が行き渡っていた。

「最初に客として行ったとき、カフェオレボウルのふちに欠けがあったんですが、それがとても美しく見えて。衝撃を受けました」

 常識では避けられる傷が、唯一の味わいへと反転する驚き。「cafe coya」が伝えている審美眼を、鈴木さんが受け取ることができたのは、彼女自身に豊かな感性が息づいていたからでもある。

 故郷の宮城県石巻市で、小学校までを過ごした。ともに暮らしていた祖父は哲学者。祖父が選んだ本を2人の妹たちと読み、食事の時間によく会話した。

「答えのない問いについて想像をめぐらせて、あれこれと語り合う。そういう時間が日常にあったことは、とてもよかったと思います」

 父親の仕事の都合で神奈川県二宮町に引っ越し、中学・高校時代を湘南で過ごした。大学時代は東京で暮らしながら、著名なスタイリストのもとでスタイリングの修業を行い、大学卒業後は単身、ニューヨークにわたり、舞台衣裳をコーディネートする仕事に就いた。ブルックリンとマンハッタンに住み、ベルリンやポートランドなど世界の先端を行く街にも長期滞在した。

 10代のころから、自分には夢に向かっていく強さがあったと、鈴木さんはみずから認める。スタイリストの師匠も、通常は弟子を取らない人だった。だが、何度も手紙を書いてアタックし、採用後はアシスタントの激務と学業を両立させた。

「でも、ニューヨークでは、もっと強くないとダメでした。アパートの隣人だった高齢の女性に、『自分の意志を持ってちゃんと表さないと、生き抜いていけないわよ』と背中を押されて、本当にそうだな、と(笑)」 

 辻堂でカフェオーナーになろうと決めたのは、ニューヨークで6年を過ごし、一時帰国していたとき。好きなレストランの隣に空き店舗を見つけて、直感的に「ここでなにかをしよう」と考えて、行動に移した。
「毎日、焼き立てのパンをつくり、お客さんに手渡しする。その『幸せな感じ』が、自分の表現したいことと結びついている気がしたんです」

 東京やニューヨークで仕事に取り組んでいたとき、鈴木さんの心を支えていたのが、カフェで過ごす時間だった。

「たったひとりの時間なのですが、周囲に人のざわめきがあって、それが私に元気を与えてくれる。この時間があったからこそ、明日もがんばろうと思えたんですね」

「幸せな感じ」は、直感した通りだった。しかし、あるときから創造への希求が、またうずきはじめた。

「海のある街で小さなベイクショップを営むって、実は人生の最終形の楽しみで、それを私は先に実現してしまった。若く動けるうちに、まだやるべきことはあるな、と思うようになったのです」

 あらたに設定した夢はホテル経営。その前段として2019年12月、東京の蔵前(台東区)にベーカリーカフェ「Chigaya 蔵前」を開店。湘南から東京へと、線がまたつながっていった。

(→後編はこちら

Chigaya Bakeshop
神奈川県藤沢市辻堂6-3-10高砂店舗A
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PROFILE

  • 清野由美

    ジャーナリスト。1960年、東京都生まれ。東京女子大学卒。慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科修士課程修了。英ケンブリッジ大学客員研究員。英国留学、出版社勤務を経て、92年にフリー。先端を行く各界の人物インタビューとともに、時代の価値観や感覚、ライフスタイルの変化をとらえる記事を「AERA」「朝日新聞」「日経ビジネスオンライン」などに執筆。著書に『新・都市論 TOKYO』『新・ムラ論 TOKYO』(隈研吾と共著・集英社新書)、『ほんものの日本人』(日経BP社)、『観光亡国論』(アレックス・カーと共著・中公新書ラクレ)、&w連載「葉山から、はじまる。」を1冊の本にまとめた『住む場所を選べば、生き方が変わる――葉山からはじまるシフトチェンジ』(講談社)など。

  • 猪俣博史(写真)

    1968年神奈川県横須賀市生まれ。慶応義塾大学商学部卒業。卒業後、カナダを拠点に世界各地を放浪。帰国後、レコード会社、広告制作会社勤務などを経て1999年にフリーに。鎌倉、葉山を拠点に、ライフスタイル系のほか、釣り系媒体なども手がけ、場の空気感をとらえた取材撮影を得意とする。本連載のほか、&travelで「太公望のわくわく 釣ってきました」の執筆と撮影を担当。神奈川県三浦半島の海辺に暮らす。

家族に、仲間に、支えられて出来た、とっておきのパン 「チコパン×クゲヌマ」

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湘南から東京へ いつか見たドーナツ屋の夢の続きを ベイクショップ「Chigaya 蔵前」

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