フォルクスワーゲン・ビートルの“神”を訪ねて
文: 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
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工業団地の袋小路に
筆者の幼少期を過ごした1970年代初頭、家に白いフォルクスワーゲン・ビートルがあった。
この車を手放しで絶賛する気はない。黒いビニール張りシートは、以前あった英国車モーリス・マイナーの革張り椅子からすると、あまりにぶっきらぼうで感触も冷たかった。車内のにおいも機械臭そのもので、たびたび頭痛に見舞われた。後席は狭く、高温多湿な日本の夏、エアコンのない車内温度は上昇した。空冷1300ccエンジンはバタバタと騒々しかった。
しかし、モーリス・マイナーが毎月のごとくどこか壊れ、オーバーヒートを起こしたり、さらには踏切でエンストして立ち往生したりしたのからすると、ビートルの堅牢ぶりは際立っていた。筆者が幼稚園や稽古事に無遅刻・皆勤だったのも、ビートルのおかげだったといっても過言ではない。
初代ビートルの起源は、第2次大戦前のドイツにおける国民車(Volkswagen)構想にさかのぼることは有名だ。やがて1945年、その生産拠点だった北部ヴォルフスブルクは米軍によって解放されたあと、英国によって占領された。それはビートルの歴史にとって幸運な出来事だった。英国軍は車両4万台を発注。このオーダーがなければ、ビートルは永遠に歴史から消えてしまったことになる。
今年は、その転機からちょうど75年になる。
筆者が住むイタリア中部シエナ県に、初代ビートル専門のショップがある。存在は知っていたのだが、逆に近すぎることが災いし、訪問する機会を逸していた。
住所を頼りに訪ねてみると、ショップは殺風景な工業団地の袋小路にあった。隣はクリスタルガラスの工場である。
あまりにさりげない立地に、突然“ビートルだらけ”の世界が広がるそのさまは、訪れたファンの誰もに衝撃を与えるであろう。
【TOP写真:イタリア・シエナ県コッレ・ヴァルデルサで初代フォルクスワーゲン(VW)ビートルの専門ショップ「デイ・ケーファー・サービス」を主宰するジョヴァンニ・デイ氏】

デイ・ケーファー・サービスの店内。Kaferとはビートル(カブト虫)のドイツ語【もっと写真を見る】
不人気車に魅せられて
「デイ・ケーファー・サービス」を主宰するジョヴァンニ・デイ氏は、47年の生まれだ。
「父は鉄道員で、親戚にも国鉄で働く者が何人もいました。しかし、私自身は祖父の仕事に惹(ひ)かれていました」
祖父の仕事とは、カロッツェリアだった。といっても今日それを意味する自動車ボディーの板金工ではない。「馬車づくりです。当時は、もちろん木骨ボディーでした」。一帯では50年代まで馬車が実用に使われていたという。
15歳でシエナの自動車修理工場に見習いに入り、アルファ・ロメオおよびアバルトのメカニックとして修業を積んだ。プロとアマチュアのレーシングドライバーの垣根が今日よりずっと低かった時代である。週末には仲間とサーキットやラリーで自らチューンした車を駆った。
初代ビートルとの出会いは? その質問にデイ氏は「安かったからです」と笑う。
「後年の高い知名度とは裏腹に、60年代のイタリアでビートルは人気がありませんでした」。戦後経済成長のなか、一般人にとっては国産車であるフィアットのほうが、より身近であったのだ。加えて、大戦におけるドイツとの複雑な関係から、同国の製品であるビートルは、けっして万人に歓迎されるものではなかった、とデイ氏は証言する。
いっぽう、メカニックであるデイ氏の目にビートルは、その高品質に対して格安に映った。
デイ氏は初代ビートルの魅力にすっかり取り憑(つ)かれた。「心の中にはアルファ・ロメオがありましたが、頭はビートルに支配されていました」と、当時の心境を語る。
デイ氏の腕利きぶりは職場で評価され、気がつけば工場長になっていた。だが91年に一念発起して独立。初代ビートルのパーツ専門店を開業する。44歳の年だった。

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初代ビートルの“神”になる
独立以来今日まで、世界から厳しい目で選(え)りすぐった初代ビートル向けチューニングおよびドレスアップ部品を販売してきた。
「今日、複製パーツだけで“新しい”ビートルを1台造ることも可能です」とデイ氏は話す。しかし同時に、「かつて本国のVW工場で造られたオリジナル部品の精度の高さ、品質劣化の少なさには驚かされます」と、ドイツ工業水準の高さも称賛する。
他社製品の販売だけではない。ショックアブソーバー、ブレーキ部品など、デイ氏自身がプロデュースしたパーツも手掛けている。こちらはドイツのファンからも多くの引き合いがある。
さらにレストアした車両の販売も行っている。今日イタリアを代表する男性シンガーのひとり、ズッケロ氏もファンで、デイ氏から初代ビートルの派生車種であるカルマン・ギアを手に入れている。
2020年はやむなく中止したが、毎年夏には地元で国際ミーティングを開催し、ファンの醸成も図ってきた。
参考までに、彼の姓Deiとはイタリア語で「神々」を意味する。まさに欧州のビートル・ファンにとっては、神のひとりである。

デイ氏がチューンを施した車両には、彼のサインを模したバッジが貼られる【もっと写真を見る】
今だからこそ光る魅力
73歳を迎えた今も、社員の誰よりも早く朝7時に出勤し、夜は9時まで独り倉庫に残る。
最後に、初代ビートルに搭載された空冷水平対向4気筒エンジンの魅力を聞くと、デイ氏は「シンプルさ」と即答した。「設計は古くても、暑い日も寒い日も、何も文句をいわず動きます」。そしてこう付け加えた。
「スパークプラグ、それを交換するためのレンチ、ファンベルトの3点を携帯していれば、大抵のトラブルは乗り越えられるのです」
話は変わるが、イタリアでは新型コロナウイルス感染症対策として、3月初旬から5月初旬にかけて罰則を伴う厳しい移動制限が施行された。最も厳しい時期の移動は、市内のみ、それも生活必需品などの購入のみに限られた。自動車整備工場は営業許可業種であった。だが、多くの施設では正門は閉ざされたうえ完全予約制となった。
そうしたなか、筆者による理想の車は、「万一の場合、自分で直せる程度の単純な機構で、とにかく動き続けてくれる車」になった。
そう、幼年時代家にあったビートルのような車だ。少し前まで、最新の運転支援技術や音声認識技術付きの車を物色していた自分が、嘘(うそ)のようであった。
「お客さんには、初代ビートルの現役時代を知る世代もいますが、免許を取得したばかりの18歳の若者もいます」とデイ氏は証言する。
初代ビートルの魅力は、独特なスタイルやエンジン音だけでない。所有するしないにかかわらず、道具としてのあり方をを無言で示していることも人の心を動かす。多くの人がすべてをリセットし、よりシンプルな生活スタイルを模索している今日、その存在はより輝いて見えるのである。

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(文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA)
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